最近、抗がん剤治療を継続できず止めてしまう、がん患者が増えている。それは副作用や薬が嫌いなわけでもなく、何と経済的な理由である。大腸がんのある薬は負担金で月8万円を超す。それに検査料などを加えると十万円以上になる。患者は自分ががんであることは当然知っており、その薬の有効性も理解しており、再発や進行の恐怖と戦っているにもかかわらず、背に腹は代えられないということだ。
国民皆保険制度が整備される前の、患者が米や野菜を持ってきて何とか助けてほしいと懇願した「赤ひげ時代」は知る由もないが、現状には強い虚しさを感じる。医師は持てるものすべてを患者さんに捧げるのが使命であるべきで、そのことに何の疑問もないが、最高の医療をすべての国民に均等に提供するはずであった国民皆保険は、すでに終わったと言わざるを得ない。
保険医療には「経済」という大きな壁があり、決まった予算の中で行われるものである。つまり、経済を意識しながら治療を行えということだ。それでは、一体予算とは何であるのか。保険者が納めた保険料と国民が納めた血税を加えたものである。では、なぜ保険料も税金も納めた患者が、抗がん剤治療を続けられないのだろうか。
国民医療費は2004年で32兆円強と、確かに上昇傾向にある。一昨年は日本人の人口が歴史上ピークであったことを加味しなくてはならないが、この額の上昇は高齢化社会によるものである。65歳以上の一人当たり医療費は65歳未満の人たちの516倍に達する。従って団塊の世代の高齢化などを考えると、今後20年ぐらい国民医療費が上昇することは必然的なものと思われるが…それとも切捨て、高齢社会が過ぎ去るまでじっと目をつぶって待とうと言うのか。
それでは国民医療費は本当に多いのだろうか。「社会実情データ図録」によると、パチンコホールの収入額は年間約30兆円という。国民総医療費とほぼ同額、米国カジノの20倍に相当する額である。パチンコ屋さんに成人が一人当たり年間50〜60万円を寄付していることになる。
なぜ国民やメディアはそのことを話題にせず、相も変わらず医者嫌いなのだろうか。かつて悪徳医者が儲けたと思ったからだろうか。それとも医者をいじめると新聞がよく売れたからであろうか。
先日のテレビの健康番組での「詐欺行為」にも各テレビ局がタブーとし、まったく自浄作用がなかったのは悲しすぎるが、そろそろ医者嫌いは放っておいて、戦後の民主主義と経済を支えてきた団塊の世代の健康と豊かで尊厳のある老後と終末に対して明確な「年貢」の使い道を考えようではないか。
イスラムにはザカートという施しの精神があるらしい。対象は自ら選択することができ、それには病人なども含まれるという。つまり、「年貢」を明確に対象者に施す極めてクリアな税制のようにも思われる。仏教の場合、施しはお布施であり、いったんお寺に納め、その後の使い道は不明である。
いずれにしても、抗がん剤を希望している患者がその治療を続けることができない状況は、自らがその制度を選択しているものであるのか。今、社会保障政策は岐路にあるような気がする。