私は外科医であるが、今まで何枚の死亡診断書を書いただろう。これからまた何枚書くのだろうか。つまり、人が死ぬ場面に何回立ち会ったか、立ち会うかということである。
死亡診断書では、病死と自然死は同じ意味を持っている。つまり、病死は自然死であるが、日本人はこのことを忘れてしまった。
病死は自然淘汰ではなく、遅かれ早かれやって来る自然現象である。それが故に、人は瞬間瞬間を自分なりの意味を持った時を過ごす努力をしなければならない。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」。鴨長明は、人の体も精神もゆく河の如く絶えず変化し、成熟し、朽ち果てることを千年近く前に見事に表現している。
元東大解剖学教授の養老孟司氏も、本来人間がたどらざるを得ないものとして「生老病死」という話をしているが、先の大戦前、大戦中、その直後には、その辺に死体が転がっていることはよくあったようである。
また、私の父が幼少だったころは、夏休みが終わると、教室で415人の子どもが減っていたという。いろいろな病気で亡くなったためだ。日本人はいつから命の「はかなさ」を忘れてしまったのだろう。
先日、百歳のジェントルな老人が入院した。どんなに素晴らしい人生を送ってこられたか私は知るすべもないが、一日だけの出会いであった。軽い喀血の様な症状があったとの由、レントゲンでは肺炎の像があったが、お元気そうに見え、永遠の寿命を持った百歳の老人であるかのように思われた。
しかし、その夜、回診ではお元気だったのに、その30分後トイレで倒れて息を引き取った。レスキュー処置をしたが反応はなく、残念な結果となった。家族には何と言いようもなく、管理不行き届きと、その死因にて検証し、以前より診られた高度な大動脈弁狭窄症による突然死? と判断した。
これは百歳の老人にとって病死であり、自然死である。というのは医師の言い訳であるのだが…。
ご家族の方もジェントルでインテリジェンスが高く、この説明でご理解していただいた。しかし、数日前までお元気だった肉親の死は何故であろうと…。つまり、死は非日常であり、今の世の中、百歳になっても「人は死なない?」のである。
今日、日本人の寿命は素晴らしく延びたものの、今は生まれる者と死に逝く者の数は逆転している。つまり、日本人の意志とは違って死はすぐ傍らにあり、あなたも私も死に向かって歩んでいるし、死は極めて日常的なことである。
しかし、今の日本人にとって臨終の場は非日常的であり、他人事として済ますべく、非常に頼りの無い人間と化してしまった。情けないくらい低俗で、生と死を尊重できない最低の民族に成り下がったことに気付いていない。
現在、事故や事件、独居老人の行き倒れ以外は、99%以上病院で亡くなり、自宅で亡くなる姿を誰も見ない。これは若い世代の問題ではなく、70〜80代の老人でも同様の生死観となってしまった。
千年前に生命の本質を表現した哲学は、日本人の遺伝子には刻み込まれなかったわけである。つまり、自分が自然死することは当然のことであり、ましてや戦国時代や特攻隊の如く不自然死も日常であったことは、逆に命のはかなさと尊さを理解するのには充分なものであった。
何故、日本人は死ななくなったかというと、面倒な死の場面を現実から捨て去り、相互に理解し合ったり、考えたりすることも忘れ、病院を中心とした他人に任せることを覚えたからに他ならない。
在宅の現場でも同じように感じることが多く、コメントさせていただきます。
「家で死にたい」と思っている人がいても、支える家族が今まで見たことも経験したこともないことに困惑し病院へ送ってしまう・・・そんなケースを何度となく経験してきました。今までの世の中が「死」を病院へと、そして医療者がイベント化させたのではないかと感じています。
一方、医療者が介入し、亡くなるまでの過程を説明したり、介護法方法を指導することで、本人の希望を叶えられたケースも多くありました。
「死」は自然な現象であることを、日々の看護を通じ皆様に理解していただきたいと思っています。