笹屋昌示先生は、肺癌にて7年間の闘病生活の後、昨年9月17日に逝去されました。
この度、H28/1/23(土)に東京プリンスホテルにて『笹屋昌示先生を囲む会(偲ぶ会)』が、主に昭和大学藤が丘外科病棟の看護婦の有志の皆さんを発起人として開かれました。彼の生前の業績を称え、彼の人柄や当時の思い出など一晩中語り、話が尽きることなく、深夜まで続きました。
このような会を開くことができたのも彼の人徳と思いますが、故笹屋先生も出席された方々に天国より感謝していると思います。
追悼文 愛しき後輩、そして戦友との出会い
平成28年1月23日
医療法人幕内会 山王台病院 幕内幹男
『 彼との運命的な出会い 』
笹屋先生(以下笹屋と呼ばして頂く)は平成元年4月昭和大学卒業とともに藤が丘病院外科学教室の門をたたき、同一門となった。
初対面で、直感的に同じにおいを感じた。運命的なものか誕生日も一緒だった。笹屋には今までに感じたことのない純粋さや飾り気のなさを強く感じ、飾らぬ付き合いが出来、存在そのものがとても心地よかった。弟のいない私にとって7歳年下の弟が出来たような気がした。優しい弟に怖い兄という関係と言って良いのか、一方的かもしれないが、気が合った。彼は色々と悩みを打ち明け、徐々に外科手術手技の習得に強い執念を持つようになった。当時、同様に手術手技の向上に頭がいっぱいであった私の背中を何故か見ているような気がした。
その後、地方の学会への同行、日々の診療、手術室でのやり取り、恋愛問題そして結婚を決めた時の報告等々思い出は尽きない。そして、24歳であった青年は人として、外科医としていろんな意味で徐々に成長したが、時に付け共に歩んだような気がし、出逢った時の直感は、更に確信となり一生の付き合いとなる予感がした。
したがって、平成19年山王台病院副院長に就任したのは、私にとっては必然であり、彼は石岡に骨を埋める覚悟で自宅を設けた。山王台病院での久しぶりに成長した彼との手術のやり取りは、この上なく楽しかった。彼の目は私の目であり、私の手は彼の手であった。
しかし、その日は突然やって来た。平成21年9/2に軽い感冒症状に対する胸部CTscanで以前患った肺結核の瘢痕部にφ2.8cmの腫瘍像が診られ、肺癌と診断した。肺門リンパ節転移も無く、早々の手術を決断、9/4開胸したところ壁側及び臓側胸膜に多数の播種が診られ、想定外であり目の前が真っ暗になった。何とも言え虚無感に襲われ、全てが終わりに思えた。しかし、この事を妻文恵さんと相談し、本人に全てを告知したところ、事実をしっかりと受け止めたその表情は、夫婦共々生気に満ちていたことに驚かされた。
『 6年間の闘病 』
当初はCDDP+GEM次にパクリタキセル、ファモチジン、カルボプラチン等の組み合わせによる典型的な多剤併用化学療法を開始した。脱毛、吐気もありやや元気なし、しかし愚痴なし。我々外科医にとってこれぞ“adverse event”辛く見え、その後あまり人前に出たがらなくなったように思えた。しかし、エントリーしていた同年11月の京都での臨床外科学会で我々のライフワークであった鏡視下噴門形成術 「GERDに対する鏡視下噴門形成術の有用性 -121例の検討-」 はキャンセルしたくないと・・・、ケモ中に発表した。それで良かったか・・・。
良いやつには、良い事もあるかと信じ、その後も2年間は同じような治療を続けた。ある日、彼の癌はALK融合遺伝子が陽性である事が判明した。ALK拮抗剤のクリゾニチブが治験の段階であったが、国立がん研究センター東病院の後藤先生に無理々頼んで、H24年5/29より開始した。それに伴い化療は一切中止としたが、クリゾニチブは極めて効果があり、“adverse event”からも開放されたと本人喜ぶ、画像診断、全身状態が嘘のように良くなった。この薬との出会いに感謝した。
この年、一緒に皆に祝ってもらう誕生日も6回目を迎え久しぶりに楽しかったと。常に頭を過ぎっていた最後の日を忘れたようだった。
しかし、そう甘くはなかった。H26年7/18に軽い頭痛にてMRIを行ったところ、前頭葉を中心に後頭葉から小脳に至るまで大きく多数の腫瘤を認めた。前年の12/22の頭部MRIでは全くなかったので油断していたと本人いわく。
7/25意識障害、痙攣出現、即座に下記の如くガンマナイフを開始した。
7/29 ガンマナイフ治療(1回目) 64shots
8/8 ガンマナイフ治療(2回目) 69shots
8/26 ガンマナイフ治療(3回目) 64shots
知り合いのガンマナイフセンターを有する浦川洋一院長の勝田病院にお願い出来たのは幸いだった。3回目には腫瘍はかなりコントロールされ、ほぼ正常の意識レベルとなった。しかし、痙攣が頻回に出現、照射による脳浮腫に伴う意識レベルの低下、また両側ARDSとなりSPO2が80%に満たない状態になった。上道が寝ずに寄り添いステロイドのパルスとサイボックス、クラビット注、エラスポール等をfull dose使用してリカバリー。これまた運よくベバシズマブがガンマナイフ後の脳浮腫に有効であることが報告され、関西医大の宮武先生のアドバイスで使用したところ抜群の効果で浮腫がとれた。不死身な男だと頑張りに驚いた。
また、タイムリーにALK拮抗剤の新薬アレクチニブ塩酸塩が報告され、本人まだまだ負けんぞと、発売前に無理々使いだしたところ、また復活した。その暮れに8回目の誕生日と本年の正月は妻文恵さん共々家で一杯やった。彼は今生きていることに感謝していると話し、いつものように屈託のない笑顔を見せた。闘病が始まって以来一切苦痛、不安、焦り、怒りや愚痴を聴いたことはなく、こちらからも心情をあえて覗くこともなかった。何という精神力か、我々に対する優しさなのか立派であったが、今思えばたまには本音を言ってほしかった気もする。
今年になってからは小康状態の中、診断書等の書類書きをしていたが、手術に入りたくて、最後に無意識のように手を洗って私の横に立ったのは5月末だったか。その後、徐々に体力が低下した為自宅養療となった。8/31痙攣発作、意識消失・救急搬送、救急車が来るまでが長く感じた。今度こそは終わりと思って挿管せずと決めていたが、顔を見た瞬間、生きてさえいてくれればいいと思いすぐ挿管してしまった。翌日抜管できた。挿管して良かった・・・どんな形であれ、一秒でも長生きして欲しかったが、来るべき時が来た。9/17数日前から意識がなく、遂に5時57分に息を引き取った。笹屋にとっても、我々にとっても激動の日々が終わった。楽になって良かったような気がし、仕様が無いと諦めざるお得なかった。
お通や、葬儀には皆さま遠方より多数いらして頂き、純粋でバカ正直で、気さくで、寛容でやや不器用な人柄は、仲間やスタッフそして患者様にも慕われて羨ましく感じ、これで良かったのかと思った。
この度、根本講師から追悼文の話があり、昔の写真を整理してみると、出会ってからの25年間が甦り、一生の付き合いとはなったが、計算違いは、私を看取るはずだった彼を私が看取ることになった事であり、無念さがふつふつと湧きだし、今更ながら、何故笹屋がと、未練を禁じえない。別れや偲ぶ言葉は言いたくなく、また、いつか出逢って一緒に手術をしたいと捧げたい。