いよいよ今週 金曜 19:00〜水戸プラザホテルにて、茨城消化器外科治療研究会が開催されます。
ただ今着々と準備を進めております[:ニコニコ:]
演者:幕内
演題:総胆管結石合併胆のう結石症に対するEST(EPBD)・ENBD先行による安全な鏡視下手術の検討
いよいよ今週 金曜 19:00〜水戸プラザホテルにて、茨城消化器外科治療研究会が開催されます。
ただ今着々と準備を進めております[:ニコニコ:]
演者:幕内
演題:総胆管結石合併胆のう結石症に対するEST(EPBD)・ENBD先行による安全な鏡視下手術の検討
山田洋次監督の 「家族」 という映画のシーンを思い起こす。 1970年、 大阪で万国博覧会も開かれた高度成長の中、 筑豊炭鉱の閉鎖に伴って職を失った一家―子供3人、 夫妻、 祖父―が、 北海道開拓に夢を馳せ、 夜行列車をつないで転居する話である。 その道中、 熱を出した乳飲み子を東京の小さな宿で失う。
当時、 救急体制など全くなく、 もちろん救命センターもなかったわけだから、夜間、近所の診療所の玄関を叩いて「どうか診て下さい」と回るシーン…。医師はなかなかつかまらず、結局、乳飲み子は亡くなる。 当時はこれが日常であったが、 母親は子供の面倒見の悪さを自ら悔いるのみである。
私は茨城生まれの茨城育ち、生粋の茨城人である。
生粋の江戸っ子といえば、ちょっとしたものだろうが、茨城人とはなかなか世には言いにくいものである。
私が東京で生活した時、なんとも言いようのない差別感を強く感じた。
そして、啄木の「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」を停車場=上野駅で強く共感したのを思い出す。
私は医者であり、国民皆保険制度の中で日々診療をしている。保険医療は「お上」から与えられたものではなく、国民が納めた保険料で成り立っているが、社会保険庁の極めて理不尽な要求の中で普遍的な医療を最大限に効率よく行なうことを命題とされ、われわれは、それに対しておびえるが如くお伺いを立てながら診療をしている犬以下の医者=バカ者である。
これは、insuranceといった被保険者主権のものではなく、保険料という名の税収に他ならず、社会保険庁が呑屋の元締めであり、徴収した血と汗を有効かつガラス張りの中で使ってもらうことを、最近、特に願わずにはいられない。
同様に国民年金問題も、大和朝廷より脈々と継承される?君が代?である「お上」=日本国に、国民が期待してのものなのだろうか。朝廷が永遠に存在することを願ってやまない愛国心なのか、あるいは無意識に漠然と日本人としてアイデンティティーのみを持っているのか。1500年間、運よく決定的な侵略を免れたことに麻痺した日本人が、知らず知らず自然に与えられた不思議ナショナリズム感の中で、国家の存在に何の疑問もなく信頼したことにほかならない。
私は、臨床医であるが医療法人の理事長でもある。しかし、今のご時世理事長室などという所に座って病院経営を考える余裕はあるはずもなく、一日十五時間の患者を診る労働二〜三%程度を病院経営及び管理に対して注がなければならない。
病院経営というと、いかにも胡散臭い不動産ブローカーのような響きを感じる人は少なくないと思うが、経済なくしての医療はあり得ない訳でつまり、きれい事では人は助けられない。したがって、いかに効率の良い経営をするかが大切である。
私は外科医であるが、なぜか4年前に介護保険の中心的位置付けとなる「介護老人保健施設」(老健)を運営することとなった。いわゆる慢性期医療は、外科の対極に位置するものと考えていた。しかし、いつからか手術を受ける患者の高齢化が進み、今では、90歳以上でも手術を受けていただくこととなった。
すでに介護が必要となっている老人も当然「見殺し」にはできず、極めてハイ・リスクということである。従って、術後に日常生活動作(ADL)が低下し、介護度が上昇する。つまり、高齢者に対する急性期医療は介護を継続しつつ、術前よりリハビリを、術後はできるだけ早く通常の生活に戻す必要がある。このためには現状の医療では不充分であり、私は老健の必要性をそこに求めたわけである。しかし、介護施設には介護施設たる役割があるはずで、設立に当りいくつかの老健を見学させていただいた。どの施設もゴールドプランとやらで、そのハード面においてはむしろ病院より立派なもので、洒落た建物と介護機器が揃っていた。
先日、立正佼成会病院小児科の中原利郎医師の殉職に対して、過労死の判決が下されたことは記憶に新しいと思われるが、なんと一部のメディアは同医師を「病院に殺された小児科医」と報道した。この表現は無知極まりなく、かつ現場を知らずして書いた記事として甚だ不適切である。
約十五年前、医師過剰時代が来ると、医学部定員を減らした厚生省(当時、現厚生労働省)の失策は愚かであり、それによって中原先生が殺されたことは明白である。それを、この場に及んでメディアまで「病院に殺された」とはあまりにも無知過ぎる。
殉職とは職責のために生命を失うことであり、しばしば警察官や軍人に使われるが、彼は殉職に間違いなく、立派な最後を迎えたと私は頌辞(しょうじ)を奉げる。最近の話題として、高校必修科目問題の責任を取って自殺した佐竹高校(常陸太田市)の校長先生も同様に殉職であり、私は日本人の倫理観として絶賛すべきものであると思う。
最近、抗がん剤治療を継続できず止めてしまう、がん患者が増えている。それは副作用や薬が嫌いなわけでもなく、何と経済的な理由である。大腸がんのある薬は負担金で月8万円を超す。それに検査料などを加えると十万円以上になる。患者は自分ががんであることは当然知っており、その薬の有効性も理解しており、再発や進行の恐怖と戦っているにもかかわらず、背に腹は代えられないということだ。
国民皆保険制度が整備される前の、患者が米や野菜を持ってきて何とか助けてほしいと懇願した「赤ひげ時代」は知る由もないが、現状には強い虚しさを感じる。医師は持てるものすべてを患者さんに捧げるのが使命であるべきで、そのことに何の疑問もないが、最高の医療をすべての国民に均等に提供するはずであった国民皆保険は、すでに終わったと言わざるを得ない。
私は外科医であるが、今まで何枚の死亡診断書を書いただろう。これからまた何枚書くのだろうか。つまり、人が死ぬ場面に何回立ち会ったか、立ち会うかということである。
死亡診断書では、病死と自然死は同じ意味を持っている。つまり、病死は自然死であるが、日本人はこのことを忘れてしまった。
病死は自然淘汰ではなく、遅かれ早かれやって来る自然現象である。それが故に、人は瞬間瞬間を自分なりの意味を持った時を過ごす努力をしなければならない。